シン・ゴジラでの石原さとみの過小評価に納得がいかない

公開直後から比較すればさすがにいくらかの落ち着きをみせているが『シン・ゴジラ』の話題がつきない。「おもしろいぞ」という流れから始まり「自分はおもしろくないね」「おもしろいけど賞賛している人々がダメだよ」「◯◯人からみたらどうだってさ」「これはコレは国威発揚の〜」云々。もはや”いかに違う方向性から作品に言及するかという芸”を競い合っているかのような様相である。そしてそれこそがこの映画が傑作と評価される所以でもあって、つまり誰もが話題にせざるおえない、観た後に話題にしないではいられない、そんな映画だということを証明している。自分も観た直後は「なぜエンドロールであんなに多くの人が関わっているのに、そこに自分の名前はないのか?」とエンタメ業界で働いているわけでも志望しているわけでもないのに本気で思ってしまった。

 

しかしこう感想を眺めているとどうしても気になるのが、石原さとみ及び彼女が演じたパターソンだったかの評価が低いことだ。僕はあの作品の中で彼女こそがもっとも重要な役だと思っていたのでこの件については異論を唱えておきたい。

 

批判というか低評価の理由はいろいろあるのだけど、基本的に役どころと英語を含めた演技両方の不自然さに集約できるかと思う。たしかにどうみても"変"であったのは事実。しかし同時にその不自然さこそがあの作品の中で重要だったのではないか。自分も面白かったとは思ったが、開始からずっとそう思って見ていたわけではない。最初の数十分の展開は緊張感と同時にいくらかの違和も感じていた。それは「〜とでも呼称するしかない」に代表されるようなセリフ回しやそのスピードのオタクっぽさとか「御用学者って言葉そんな使い方する?」とか「もう少し少し取り乱す奴いるだろ…」とかとか、どんな映画をみててもよくあるそういう感想をもって観ていた。

 

そこから徐々に「あれ?もしかしてこれってこういう映画??」と思えてきたところに石原さとみの登場。そのキャラクターと石原さとみ感全開の演技に「なるほど、これはアニメ映画なんだ」と確信、その流れで最後までめちゃくちゃ楽しむことができた。

つまり彼女の存在は作品がリアル映画の路線ではなくアニメ的なフィクションなんだという強いメッセージになっていたということで、あれがなければ「日本の政治がー」とかいう公開初期にみられたトンチンカンな印象になっていたかもしれないなと思うのだ。全部でエンターテインメントなのに。

それにしても何を演じても石原さとみ感がでるあたりはキムタク的というか一辺倒とは確実に違う個の確率をした女優だなと改めて感心した。

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いまさらだけど映画『オデッセイ』は少年マンガみたいだった

もはや上映中の映画館もわずかだが『オデッセイ』をみたので感想を残してこうと思う。どこでも同じような感想が並んでいるけど、良くも悪くも「THEハリウッド映画」だよなぁというのがほぼ全てで、ちょっと日本の少年マンガっぽいなとも感じた。

 

事故で火星に一人残された主人公が無事地球に帰還するまでのはなし。なんか「Yeah! We are the world!」みたいな地球全体がひとつになってる雰囲気がどうしても受け付けず、玄人筋の人たちが「いやぁー、これは難しいこと考えずに純粋に楽しむもんですよー」とか一様にいってるのも、なんだかなぁと。宇宙で、火星でぼっちといういささかの高級感ただよう『インターステラー』少し前にあったので同じ目線でみるもんじゃないよということなんだろうけど、「あぁ、そう…」という感想しかなくてそんなエクスキューズが必要な映画ってなんなんだろうとも同時に思った。

 

では駄作なのか?っていうと全くそんなことはなく実際スゴイ作品だとも思ってる。イメージする悪い意味でのハリウッド的なものとは結構違っていて、自分は「世界がひとつに」的な部分は辛かったが、たとえば変にウェットなところや、家族やラブストーリーを安売りしなかったりと見やすくなっているし、次々と課題がでてきて理屈っぽいもの(それが妥当かどうかは別として)を示しながら解決していくのはなかなか痛快で、上映時間全く退屈しなかった。

 

この楽しさって日本の少年マンガのそれの楽しさに近いのかなと思う。

 

であれば割りきって楽しむのが吉というのも理解できる。いずれにしてもこうやって映画マニアよりな人でも満足させる最大公約数的エンターテイメントを進化させながらつくれるアメリカはやっぱすごい。

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評論家はかっこいい

数週間まえのこと。夕食をとろうと近くのラーメン店に入った。そこではFMラジオが流れていて、どうやら津田大介の番組で東浩紀がゲストのようだった。食事をしながらであったし、話題もいくつかにまたがっていたのではっきりとは覚えていないのだが、そこで東氏が「現代は非常に行動が求められる時代」だとし、曖昧な態度は許されずひとたび何かに言及しようとすると「じゃあ、お前は何してるの?」と問われる時代であると言っていた。しばらく時間がたつが今でも強く印象に残っている。

 

言われてみると現代はまさしく行動至上主義とでもいえるかもしれない。先日ネットでうっかり読んで後悔したのが、とあるベンチャー経営者が起業家である自分だけがわかる苦しみみたいなことをいっている記事で、曰く「これはどんな大企業の重役にもわからないだろう」といった論調のものだった。つい最近もネットで「フリーランスでリスクをとっている人の文章は面白い」だとか言った人がいたがこれらの発想はみな同根にあると思う。リスクをとって行動している自分は立派で語る資格があり同時にさほど行動していないと思われる人はヒョーロンカでしかないとみなす考え方だ。

 

自分はこれが気に食わない。そもそも彼等がスゴイとは思えないのだ。いや、実際に尊敬に値する部分はそれなりにあるのは事実だが、起業といっても投資市場が活発でかつてのような人生を賭けるといった趣はなく(もちろんそれでいいのだが)、「お前だって大企業の重役の大変さも引きこもりの苦しさもわからないだろうが」程度のものでしかない。くだんのライターだって、彼女が挙げた「リスクをとっている面白い人」が他の作家・ライターや一般の会社員と比べてもさほどリスクをとっているようにみえず、その文章も独特の感性も深い洞察もなく、ただの作文にしかみえないことも多い。

 

一番嫌なのが、彼等のような人たちが時に「評論家」を蔑称として使うことだ。行動が重んじられるばかりに、冷静に外から分析することが軽んじられすぎている。下記のリンクの本では、評論家の宇野常寛が起業家との対談が納められているのだが、そこで宇野はビジネスの文脈でしか語られないものを社会や文化の面から捉えて意味付けしていく。気づかない見方も多くあり、自分はとても興味深く読んだ。

 こうやってマクロな視点からものの価値を整理したり、新しい見方を提供したりすることもまた創造だろうに。少なくとも行動だけの人よりよっぽど何かを生み出していると思えるのだが…。

資本主義こそが究極の革命である  市場から社会を変えるイノベーターたち

資本主義こそが究極の革命である 市場から社会を変えるイノベーターたち

 

 

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いつか来るかもしれない批判のない世界

イケダハヤト氏の大きな欠陥は「真っ当な批判と罵詈雑言の区別ができない」点です

批判的な意見はだいたい100%当たっている - Hagex-day info

 面白かった、元になった鳥井さんの記事が特に。いささか自己啓発的な香りはあつつも「批判的な意見は当たっている」としたほうが、正しい気もするし面白い。「批判は全て聞かなくていい」というのも、少し前まではそれなりに意味のあるカウンターになっていたと思うが、今となっては古さを感じるし松浦氏の意見のほうがしっくりくる。もちろん聞くまでもないもの・反論すべきものはあるが、反応をすべてスルーするのであればそもそも書き手は公開しないでほしい、マナーとして恥ずべきことだと思う。

 

最近炎上系ネット有名人をみててなんだかなーと思ったのは、現実にほとんど存在しない人をとりあげて「〜な人って〜だ」的なエントリーをあげる→あらすぎる論に批判があつまって炎上→釣っておきながら「ちゃんと読めよ」と返す→反応した人の中で明らかに誰が見てもヒドいのをピックアップして批判に対する批判を行う、というやつ。あまりのマッチポンプと見えすぎる展開…。

 

たしかに取るに足らない批判だとしても書かれた側にはかなりのダメージになりうるわけで理解はできなくもない。とはいえあんまりだと思う。彼らはまっとうな批判すら聞く気がないので、もう誰も何もいわないのがいいみたいな流れが進行している気がする。

自分の取り巻きが「そうだそうだ!」と援護してくれる中で、その声に煽られて表現し続けることのほうが、よっぽど怖い

批判的な意見を見つけたときの心構え。 | 隠居系男子

これって一部の人にだけ当てはまる話ではないのではないか。炎上とまではいかなくともSNSではもう「批判しない」文化が醸成されて「いいねの裏にある10倍のダメだろ」が見えなくなっている時代になっていると思う。今後どんどん人やサービスが入れ替わっていく中で、(まっとうな)批判をするという行為はなくなっていくのかもしれない。

それがいいことなのか悪いことなのか僕にはわからないけど、そんな発信って怖いよなというのだけは確かだ。

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大学いかないのも新卒カードつかわないのもまた普通の選択

大学にいかない・新卒入社しない人たち

この何日かでネットで話題だった記事がある。タイトルの通りで「大学行かないで起業します」というのと「フリーで社会人スタートします」という記事だ。 

プログラミングスキルがあれば学歴なんていらない。17歳女子高生が大学進学をやめて挑む初起業。 — Medium

【新卒フリーランス】早稲田を卒業したのでキャンピングカー生活始めます - やぎろぐ

 これらに対する反応も含めて読んでいて、最近ある高校生と話したことを思い出した。その子が言うには「いま作家を目指している→大学に行く意味を感じない→だから卒業したら働きながら作家を目指す」ということだった。僕は直感的に「もし行けるのであれば行ったほうがいいんじゃないかなぁ… 」と言ったことを思い出した。

単純な理由で、作家になるなら多くの人が経験する大学生になっておくほうがいいだろうと。仮にやりたいことが変わった時でも大学を卒業していたほうが、とりあえずリスクも低い道なんじゃないかと感じたからだ。話題になった記事への反応でも一部その時の自分と似たような反応がいくつかあって、「大学はでておかないと困ることある」「会社経験しておくのはお得だぞ」といったコメントや記事をいくつか読んだ。

それもまた〈普通〉の選択肢

でも少し考えてみれば「何がいいかなんて誰にもわかんないよなぁ」というあたりまえの結論に辿り着く。そんなことは前提で言ってるのだろうが「思っている以上に」というはなしだ。高校生なら大学に入る前に1回社会人経験を積んでおいたほうが、後で大学で学びたいと思った時にも判断に役立つだろうし、起業するなら若ければ若いほど周囲からの助けが得られると思う。

新卒フリーランスの人だって、新卒として育ててもらえる機会を失ったかもしれない。でも一方でリスクを回避したようにも僕にはみえる。優秀な人たちは違うのかもしれないが、僕は新卒入社した会社ではそれほどいい経験やトレーニングは積めなかったし、酷い仕事や上司にあたって疲れてしまった人もみてきた。作家を目指す子にしても大学に行かないという選択をしている割合も実際には数十%いるわけで、それだって普通の人の感覚を知ることになるのだ。高卒で働くことも、新卒で勤め人にならないことも実は一般的な選択肢のひとつなのだ。

生存者バイアスの罠

結局のところ人は(僕は?)自分の経験したことを過大評価してしまってるだけなのではないかと思う。大学生活や会社から得たものはたくさんあったかもしれないけど、失ったものや違った選択で得られたかもしれないものにあまり無自覚だ。

あえて問題をあげるとすれば、起業して立ち上げようとしているサービスがそんなにヒットしなさそうなこと、キャンピングカー生活というのがあまりにネタとして面白くなさそうだしフリーランスって何するんだ?ということだが、それだって優秀そうな彼等のことだからうまくピボットしてすぐいい感じになっていくと思う。あとはどちらも語り口があおり気味というか、特に後者の大学生はネットワークビジネス系の人のそれとあまりに被るのでそこに強い抵抗感を持ってしまうところか…。

まぁ、この結論には勇気のいることでそれだけは確かだと思う。

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